2024年10月31日

日記

このたび、「貧乏大名やりくり物語――たった五千石! 名門・喜連川藩の奮闘」なる一書を手に取り候。著者は山下昌也殿、講談社プラスアルファ文庫にて刊行されし由。

まこと、興味深きはその由緒にて候。足利将軍家、すなわち室町幕府の栄華を今に伝える末流の物語にござる。

足利家は十五代義昭公をもって幕引きと相成りしが、その子は一人のみ。しかも、その子の子ら二人とも仏門に入られ、ついに家は嫡流としては絶え申した。

されども、絶えたのはあくまで嫡流にて、足利尊氏公の血脈そのものは、なお途切れてはおらず。尊氏公の御子・基氏公を祖と仰ぐ鎌倉公方の系譜がこれに当たる。

この鎌倉公方、時の流れとともに古河公方・小弓公方と名を変え候。やがて室町末期には、両家とも存続危うしと見えし折、豊臣秀吉公の采配により、古河の殿と小弓の姫との縁組がなされ、下野国喜連川にて三千五百石を賜り、命脈を保たれ申した。

その後、徳川家康公の加増を受け、五千石となりしが、大名たるには一万石が相場とされ申すゆえ、通常ならば旗本扱いにござる。されど、いかに石高少なかろうとも、足利将軍家の名跡を継ぐ家として、十万石並みの格式を保ちたるというから驚きに候。

この「格式と石高との落差」こそが、喜連川藩を悩ませし数々の苦労の源にて、まこと読んで面白きことこの上なし。

その苦労、すなわち貧乏が主たるもので、書の帯には「藩と領民を守るため手段を選ばぬ金もうけ!」と大書されており申す。

藩主もさぞ苦心されたことと察せられるが、さらに気の毒なるは、その下で仕える藩士たちにて候。なんと、家老ですら百石、下に至っては七石などという拙き俸禄とのこと。七石とは、現世換算にて年収二十八万円相当との由。これにて一家を養うは至難の業にて、畑を耕し、自給自足の暮らしをしておったとのこと。

この一書、喜連川藩の話に留まらず、他藩の台所事情や、江戸城における儀礼の数々にも触れており、誠に広範にして奥深き内容にて候。

歳を重ねし我が身なれど、斯様な書を読むにつけ、往時の世の有様が眼前に浮かび申す。誠に、面白き読書と相成り申した。


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