拙者、幸いなることに、湯の湧き出でる土地に住まうており申す。此方では、湯屋の値も三百文ほどと安うござり、週に一度は湯に浸かるが、長年の習い性となっておる次第にて候。
湯に浸かれば疲れも取れ、身心ともに軽うなる。疲れたときこそ、湯に限る――斯様に信じて疑わざりしが、あるとき思いもよらぬことが起こり申した。
齢六十五を迎えしばかりの或る日、いつものように湯に赴いた折のことでござる。その朝より、どことなく身体に疲れを覚えておったが、「湯に入れば、すぐにでも癒えよう」と、何の疑いもなく出かけたのじゃ。
いつもの湯に身を沈めておると、ふと、眩暈のようなものを覚え、これはいかんと早々に湯より上がり、脱衣場の腰掛けにて一休み致した。しかしながら、これが一向に快方に向かわず、むしろ悪くなるばかり。鏡を覗けば、顔は青ざめており、胸のあたりがむかむかしてくる。
これは尋常ならぬと、這うようにして厠へ向かい、吐くものを吐き終えて、ようやく立ち上がろうとしたが、これがまた、体に力が入らず、厠の中でしばし立てずにおった。かようなことは、これまで一度もなかったゆえ、さすがの拙者も心底うろたえ申した。
なんとか身体を起こし、脱衣場に戻り、腰掛けに腰を下ろし、持参していた飲み物をがぶがぶと飲み、頭に手拭を乗せ、目を閉じておった。
時は平日の昼前、人影もなく、湯場には拙者一人きり。番台の婆さまに声をかけるべきか、いや、まさかとは思えど、救急の駕籠を呼ばねばならぬか? いやはや、情けない、しかし命には代えられぬ……などと、胸中穏やかならぬ思いにてござった。
然るに、天の助けか、思いがけず、ふと身体が楽になり申した。まるで嘘のように、すうっと気分が晴れ、時計を見れば、三十分ばかり経っておったようでござる。
急ぎ着物をまとい、何事もなかったかのように番台に会釈して、湯場を後に致した。
帰宅してから、あれこれ思案致した。これは「湯あたり」かと考えもしたが、後に書付(インターネット)で調べてみたところ、どうも様子が違う。
己の見立てでは、疲労に加えて、何よりも「水分の不足」が原因であろうと結論づけた。いつもなら湯に浸かる前に、何がしか飲んでから入るのだが、その日に限ってそれを怠っておった。
もっとも、水を飲まずに入湯したことなど、これまで幾度となくあった。それでも倒れることはなかったゆえ、今回は――齢(よわい)のせいとしか思えぬのでござる。
湯に入るというは、見た目ほど楽なものにあらず、なかなかに体力を要する。年寄りは年寄りらしく、無理は禁物――そのように、ようやく悟り申した。
2024年11月8日ーこのページー2024年11月10日