2024年11月11日

日記

「日本の国宝、最初はこんな色だった」(小林泰三 著・光文社新書)なる書を読了いたした。まことに目を開かれる思いにて、感銘深くページを繰り進め申した。

わしが長らく抱いておった仏像の印象と申せば、いかにも時を経た、落ち着いた佇まい。色味も淡くくすんでおる。そこにこそ、尊さや重みを感じておったのじゃ。むろん、それが当たり前と思うておった。

かつて東南アジアの寺院にて、金ピカの仏像を目にしたときは、「なるほど、あちらのお国柄か」と半ば他人事のように感じておった。日本では、あのような光り物は趣を欠くもの――そう決めつけていた節もある。

されどこの書に曰く、わが国の仏像も、もとより金箔煌めくまばゆき姿であったとな。奈良の大仏も、極彩色の四天王も、もとは実に華やかにして壮麗、見る者の心を奪うものであったという。

そもそも、色褪せ塗装が剥げ落ちたとは、損傷にほかならぬ。修復したいと思うのは当然の心であろう。それが成されなかったとなれば、資金難、技術の断絶、あるいは信仰の衰えなど、さまざまな事情があったに違いない。

そして、手つかずのまま年月が過ぎ――本来の姿を知る者が誰もおらぬ時代となり、人々はそのくすんだ姿を「本来の姿」と思い込み、むしろそれ以外を受け入れぬようになっていった。金箔の仏像を「けばけばしい」と感じてしまうほどに、価値観は変わってしもうたのじゃな。

されどこの書では、古の仏像の姿をデジタルの力により再現し、当時の彩りを現代に甦らせておる。まことに見事なり。損傷を補い、失われた色彩を探り出し、往時の姿を現代に映す――その技術と志に深く感服した。

今、我らは「くすんだ今」と「華やかなる往時」の両方を見ることができる。これこそ、時を越えて受け継がれし文化の妙味であろう。どちらが優れているというのではなく、両方を知ることによって、いっそう深く仏像の美を味わうことができる。これぞ現代に生きる幸いというものにござろう。


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