2024年11月13日

日記

近ごろ、同年輩の知己が「どうも記憶が怪しくなってきた」と、ぽつり呟かれた。拙者もまた、「いや、拙者も同じにござる」と応じた。なに、嘘ではありませぬ。実のところ、近年とみに気にかかることにございます。

たとえば「これは後ほど調べてみるか」と思った刹那、その「これは何だったか」が霧のごとく消えてしまう。しばし眉間に皺寄せて記憶の棚を探れば、何とか思い出すことも多いが、これはいよいよ“あれ”の前触れにござろうか、と苦笑せざるを得ませぬ。

とは申せ、さほど気に病んではおりませぬ。そもそも若き頃より、記憶力というもの、あまり得意ではなかったゆえ。とりわけ、人の名を覚えるのが苦手にて、顔もよう覚えぬ。道にて深々と頭を下げられ、「さて誰であったか」と思いながら、こちらはさらに深々と頭を下げ返したことがある。その者が新しき部下と知ったのは翌日のことにござった。

今日の日付や曜日、これまた昔から心許ない。いざ記す段となって「さて今日は何日であったか」と独りごちるのは常のこと。雑談の末に肝心の用事を忘れることがあるので、電話の際は要点を紙に書いてからかけるようになり、人に会うときも用件を箇条書きにして懐に忍ばせる。すべて若き頃よりの工夫にござる。

故に、近年の物忘れもまた、「元々そうであった」と心得、さして嘆くこともありませぬ。むしろ、忘れぬようにメモを多く使うようになったは、進歩と言えるやも。付箋紙に思いつきを書き付け、部屋のあちこちに貼っておるが、これもまた拙者の戦法にござる。

「メモに頼りすぎれば記憶力が鈍る」と申す者もおるが、まずは大事なことを忘れぬが肝要。記憶とは守るべきものにござる。

無論、記憶の鍛錬ができれば、それに越したことはない。妻が嗜むパズルを拙者も試したが、どうにも肌に合わぬ。退屈で、すぐに腰を上げてしまう始末。こればかりは、己の気質というものでござろう。

さて、何がよかろうか。記憶の鍛錬と申しても、人それぞれに相性というものがある。拙者のような者には、「書く」ことがよろしかろうと存ずる。日々の思いや読んだ書物の感想を綴り、過去を振り返り、心の内を整える。それが自然と頭の中を巡らせ、記憶を働かせる鍛錬となる。難しい計算や数字のパズルよりも、筆を執る方が拙者には合っておるように思えまする。


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