八十路が近くなり、秋が深まった日、ふと、窓の外に目をやると、冬枯れの木々の枝が寒々と目に飛び込んできた。この風景を見ながら、自分の人生の来た道を、あれこれと振り返ってしまった。
「あの時、ああすればよかった」「こうしていれば、今頃は」——誰もが一度は口にする、この「後悔」という言葉。若い人たちが口にするときには、それは希望である。失敗を糧にして、また立ち上がろうという、エネルギーが透けて見える。身体も心も、柔軟で、多少の無理が効くからだ。
しかし、老いた身になって、同じように悔やむのは、どうにも身体に毒だと、最近つくづく思うようになった。特に、体力の衰えはごまかしがきかない。若い頃にできなかったこと、諦めたことに、再び同じ情熱と体力をもって「再挑戦」できるわけがないのだ。新しい分野を学び直す意欲や時間があったとしても、昔のように徹夜して机に向かうなど、もう無茶というものだ。
にもかかわらず、過ぎた日の自分を鞭打つように、あれこれと「悪かった点」ばかりを数え上げ、己の至らなさを責め立てていては、どうなるだろう。その重い心持ちは、必ずや肉体を、特に繊細な「脳」を蝕むに違いない。
だからこそ、私は、むしろ「自分はよくやった」という自己肯定感を、静かに心の中に育むことが大切だと考える。それは、過去の過ちをすべて帳消しにするような、安易な自己欺瞞ではない。ましてや、人前で過去を美化し、自慢話にすり替えるような、愚かな振る舞いとは対極にある。
私がここで言う自己肯定感とは、自分自身に対して、「あの状況下で、精一杯生き抜いた」という、静かで深い納得感を持つことだ。あの時の私には、あの道を選ぶ理由があった。あの判断をするに至った、避けがたい事情や、若さゆえの未熟さがあった。そして、その選択の結果として、今の私がここにいる。この「今」は、決して全てが間違いだった結果ではない。良いことも、悪いことも、全て抱きしめて、この人生を「自分のもの」として受け止めること。それが、老いての穏やかな境地ではないだろうか。
老いとは、残された時間が限られてくることだ。だからこそ、悔いという名の重荷を背負って歩くよりも、過去の自分をそっと労い、感謝の念に変えて、身軽になりたい。そうして初めて、目の前にある、今日の穏やかな陽光や、一杯の温かい珈琲のありがたさを、心底から味わうことができる。人生の終盤戦は、過去を裁く時間ではなく、今を味わい、静かに自己を肯定する時間なのだと、この冬枯れの景色を見ながら、しみじみと思うのである。
