ふぅ……拙者(せっしゃ)も年を重ね、あちこちに不調を抱える身となり申した。されど、これで煙草なぞ嗜んでおったならば、今頃はさらに悪しき身体となっておったに相違あるまい。
拙者がまだ童(わらべ)であった頃――親も、親類も、家に出入りする男衆(おとこしゅう)は皆、もくもくと煙を吐いておったわ。女とて年嵩(としかさ)の者は、男に劣らず煙草を嗜んでおったのじゃ。
ゆえに、家の中は朝より晩まで、いつも煙が立ちこめておってな。外へ出ても、煙のない場所なぞほとんどなかった。
小学校の師匠部屋など、白く霞んで何が何やら分からぬほどじゃった。
車(かご)に乗っても、船に乗っても、どこぞの茶屋に入っても、灰入れがあり、誰ぞが必ず煙をくゆらせておったものよ。
不思議なことに、あの頃はさほど煙が気にならなんだ。むしろ、煙と共に育ったと申しても過言ではなかろう。
されど今では、その匂いが鼻をかすめただけで、不快感が胸の奥まで広がるのじゃ。不思議なものよのう。
先日、「J・エドガー」なる異国の芝居絵巻を観たのじゃが、そこにて、主人公の母がこう申しておった。
「煙草を吸っておるかい?医者が申しておった。大任にて神経が磨り減る。父のようになるぞ。吸いなされ」……と。
その場面にて、拙者は、五十年あまりも昔、伯母に煙草を勧められた折を思い出したのじゃ。
伯母は、拙者がようやく一人前の働き手となった頃に、「煙草をやらぬとなると、甲斐性なしと見なされる」と、こう申してな。男として立派に見られるためには、煙草も必要なのじゃと、そう教え諭してきたのじゃ。
家でも職場でも、煙草が空気の如く当然の時代。されど、どうしたことか、拙者は一度も手を出さず今日まで参った。不思議なものじゃ。健康を案じてのことでは断じてない。若き日には、身体のことなぞ気にも留めなんだ。
思い当たるのは、ただ一つ。あの叔父御の存在にござる。
親類衆の中にて、唯一、煙草をやらなんだ御仁。その方に、中学生ほどの年の頃であろうか、「何ゆえ吸わぬのか」と尋ねたところ、こう返されたのじゃ。
「あんな臭ぇもん、吸えるか」と。
その一言、まことに衝撃であった。
それまで拙者は、大人たる者は皆煙草を嗜むものと信じて疑わなんだ。
されど、大人の口より、当たり前を否定され、己の常識がひっくり返った。
その時の一言が、深く心に刻まれ、今日に至るまで拙者を煙草から遠ざけてくれたのやもしれぬ。
実に、人生とは不思議なものでござるな。
2024年10月28日ーこのページー2024年10月30日