読書記録 忘れられた日本人 宮本常一著 ワイド版岩波文庫 1995年2月16日発行
私「私が生まれた村は冬になればバスが運休になってね。町に用事があれば乗合馬車に乗ったんだ。車輪じゃなくてソリだよ。町には今のバスセンターのような馬車乗り場があってね。あっちこっちから馬車が着いて、出発していたんだ。うっかりすると馬糞を踏んでね。」
などと、話のついでに、若い人に語ってしまいました。若い人に昔の話をすることはめったにありません。あっても、話している途中で、どうでもよい話をしていると気付いて、ゴニョゴニョと濁してしまうのが常です。
ところが、世の中は広いもので、このような昔のことを、見てきた人、体験してきた人から取材する、民俗学という学問があります。
民俗学の大家、宮本常一氏が著した「忘れられた日本人」は、戦前から戦後にかけての農漁村の取材活動で採取した証言集です。
あとがきで著者は、この本の成り立ちを「いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きて来たのかを描いて見ようと思うようになった。それは単なる回顧としてでなく、現在につながる問題として、老人たちのはたしてきた役割を考えて見たくなったからである」と書いています。
これが民族学の真髄なのかなぁ、と思います。
ただし、民族学はとても難しいところがある学問のようです。宮本常一・安渓遊地著に「調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本」というのがあります。この本はもう手元にないので、詳しい内容は覚えていませんが、調査が人に迷惑をかけることがある、という内容でした。
実際、宮本常一氏自身が、研究のためとして村から借用した資料を返却せず、網野善彦氏が何十年後に返却したということを、網野氏の「古文書返却の旅」で読みました。そのころは宮本氏の「塩の道」と「イザベラ・バードの旅」を読んだばかりだったので、大いに残念なことだと思ったものでした。返却しなかったのは宮本氏だけではなかったので、借りた資料が自分の論文になれば後は知らんのか、と民俗学者全体に少し腹を立てたものでした。
ということはありましたが、月日が流れて、今は、返せなかったのは、体調などいろいろあったのだろう、物事が予定通りに行かないことはよくあることだと思うようになって、あらためて、代表作と言われているこの本を注文したのでした。読んで良かったと思います。並の取材力ではありません。宮本氏でなければ引き出せなかった話が掲載されていると思いました。
さて、内容ですが、性談義が含まれています。昔の人は性について実に開放的だったようです。確かに、私が子供の頃の近所の婆さんたちがゲラゲラと笑いながらしていた猥談を思い出すと、さもありなんと思います。
また、実に行動範囲が広い登場人物も多いです。これも分かります。近所の婆さんが、明治の中頃に東京のある著名なお屋敷で女中をやっていたと聞いて、なんと歴史の一コマを見てきたんじゃないかと、驚いたことがあります。先人は思いがけないくらい活動的でした。
話が変わりますが、昨日は床屋さんで久しぶりにずいぶん待ちました。先客の数からしてそれほど待たないと思ったのですが予想外にかかりました。リタイア前だったら日を改めるか違う床屋さんを探したと思いますが、今は次の予定が無いので泰然としたものです。
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