「吾輩は猫である」を読み返しておった折、猫同士が飼い主の齢(よわい)について語り合うくだりに、ふと心を止め申した。
「御師匠さんはあれで六十二よ。随分丈夫だわね」
――六十二で生きているくらいだから丈夫と申さねばなるまい。
なるほど、今の世の感覚からすれば、六十二などまだまだ若輩の部類なれど。「人生五十年」などとも謂われた明治の御代、六十を超えて健在であることは、確かに「丈夫」と賞されるに足ることだったのであろう。
拙者も若き折には、六十歳を超えた者は、それこそ仙人に近き老爺であるかのように思うておった。実際、昔の人々は、今に比べて幾分老けて見えたようにもござった。
されど、いざその齢に達してみると、不思議なもので、自らを「老人」とはなかなか思えぬものよ。いや、実のところ、身体はあちこち弱り始め、間違いなく老いの道を辿ってはおるのだが――若き日々に思い描いておった「老人」という像とは、どうにも重ならぬ。これはまことに、面妖な感覚でござる。
案外、かの昔の老人たちも、周囲から老けたと見られながら、心の内では「まだまだ」と思うておったのやもしれぬな。人の心とは、常に時を越えて似たような道を歩むものかもしれぬ。
さて、本日はよく晴れ申した。気温は十三度。寒からず、暑からず。庭に出て、静かに一服しながら、陽の光を背に受けて、そんなことをつらつらと考えておった次第――。
2025年3月23日ーこのページー2025年3月25日