何年か前のことでござる。ある折、弔いの席に出向くこととなり、久方ぶりに黒紋付なる装束を箪笥より取り出したところ……
なんと、腹回りがきつうなっており、冷や汗をかいたものでござる。
「これはいかん」と、しばし心を入れ替え、食を慎み、歩みを増やし、かつての装束がふたたび無理なく着られるようになり、ひとまず胸をなで下ろしたのも束の間――
近ごろ、またもや腹が前に出てまいりましてな。いやはや、油断はならぬものにて候。
その因(もと)と覚しきは、拙者も心当たりがござる。
昼下がりの「珈琲時(こーひーたいむ)」とやらに、つい菓子パンの類いを茶請けにいたすようになったことにござる。
以前はと申せば、珈琲に添えるは数枚の乾き菓子――「びすけっと」――と決めておったのだが、
あるとき「ミス・マープル」なる読み物のなかにて、倫敦(ロンドン)の紳士が女中に「茶と、菓子か、はたまたバタを塗った焼きたる麺麭(ぱん)を」と命ずる場面を見かけ、これに感化されてしまい、以後、珈琲にパンという習いができてしまったのじゃ。
拙者、かようなちょっとした場面に弱く、すぐ影響を受けてしまう性分にて……まこと、困ったものでござる。
しかも近ごろは、町の小店(こんびに)や商店(すーぱー)、あるいはパンの店にて、あれこれ美味き麺麭が増えすぎておる。
旅に出る折には、その土地のパンの店を事前に調べ、わざわざ立ち寄るようになり申した。
となれば、「一つ二つだけ」にはならず、何日も眼の前に「うまき誘惑」が並ぶ始末にて候。
本日は朝より空重く、しとしとと雨の絶えぬ一日にて候。
雨の音を聞きながら、己が腹をさすりつつ、思案に暮れる老いの宵にござる。