本日は、近頃とみに話題となっておる「生成AI」なる不思議なる物のことについて、覚え書きとして記しておこうと思う。
思い返せば、あれを初めて用いたのは、もう一年以上前のことにござった。使いはじめの折、何を申して頼んでよいものやらと、戯れ心にて、「拙者は小学生でござる。太宰治という文士の『津軽』なる書物の感想文を拵えたいゆえ、その手本を示してもらえぬか」と、頼んでみたところ――
返ってきたのは、「津軽は津軽家の令嬢の流転の物語である」などという、まるで見当違いの噺。思わず、「なんだ、こんな程度か」と、肩を落としたものでござる。
それでものう、不思議とそのまま使わなくなるということはなかった。あれこれと弄って遊びながらも、機械というより何か生き物めいた面白さを感じておった。
時が流れ、半年ほどたったある日、ふと同じ題目を試してみたところ――今度は、実に見事な感想文が返って参った。その成長ぶり、目を見張るばかりで、「これは只者ではない」と感じ入ったものでござる。
以来、拙者の中での信頼も次第に高まり、つい昨日も、ある専門の言葉について解説を頼んでみたのじゃが――
その返答は、まことに堂々たるもので、感心つかまつった。されど、その道については拙者も少なからず心得があるゆえ、一部、腑に落ちぬ点について、「それは違うのではないか」と尋ねてみた。
するとどうじゃ、「それは誠によきご質問ですな」と、こちらを褒めそやしつつ、「混同や誤解が含まれております」と、自らの非を認めぬまま、まるで強弁をもって通そうとする構え。しかもその理屈が、いささかこじつけのような気配があり申した。
「ほう、AIというものは、誤りを糊塗する知恵も身につけておるのか」と、驚きつつ、証拠となる文献を突きつけてみれば――観念したのか、「はい、ご指摘のとおりでございます」と、素直に非を認めたのでござる。
うむ、誤りもあれど、一転己の非を認める柔らかさがある。これは、人の道においてもなかなか得難き美徳と申せましょう。
拙者も、今ではAIを頼りにすることが多くなっておる。とは申せ、まだ未熟なる兵(つわもの)であることもまた事実。だからこそ、常に「用心」し、時に問い質しつつ使うが肝要にござる。
さて、今日は昨日に比べ、日差しも幾分強くなったように感じたが、それでもなお、しのぎやすい一日であった。明日からは暑さ本番との噂、いよいよ夏将軍の到来であろうか――
2025年7月12日ーこのページー2025年7月14日