ただ今、世の中では参議院議員選挙が行われておる。先日は、ある一派が掲げた「終末期の延命治療にかかる費用は、すべて本人の負担にすべし」との策が、話題になっておった。
拙者は、そうした主張に与するか否かは別として、拙者自身のことについては、すでに齢を重ねて後期高齢者の仲間入りをしてござるので、今後病に倒れ、回復おぼつかない事態となれば、延命のための術は、ぜひともご辞退仕りたいと、かねてより考えており候。
数年ほど前には、家族にも申し伝えておいた。
「もしもの折は、水分を入れるための点滴くらいはともかく、胃に管を通すような処置や、機械で息をつながれることは、拙者の望むところにあらず」と。
すると、家族のひとりが、「せめて胃瘻くらいは良いのではないか」と申したが、拙者は「否、それはならぬ」と首を振った。
この世に未練が無いかと問われれば、もちろんそうではない。されど、人というものはどこかで“引き際”を見極めねばならぬと、拙者は思うておる――そう決めておる。
さて、本日もまた暑き一日であった。
庭に出て、ぼんやりと小屋の屋根越しに空を見上げておったところ、ふと、半年前にはこの屋根よりも高く、雪が積もっていたことを思い出した。さらにあと半年が巡れば、また庭一面、拙者の背丈を超える雪に覆われておることじゃろう。
四季は、何事もなく巡る。人もまた、その流れの中にある。何事も、しずかに、自然の流れに身をまかせるのがよろしかろう――と、今日はそんなことを考え申した。
2025年7月15日ーこのページー2025年7月17日