車を手放して以来、足に頼る暮らしとなり、歩く道すがら自然と足袋(くつ)の底も擦り減るというもの。されば本日、馴染みの「ワークマン」にて、新しき一足を求めてまいりました。
このたびの靴のことにて、ふと頭をよぎりましたのは、夏目漱石の『門』に登場する宗助殿のことでござる。
宗助はどこぞの役所勤め。暮らしは質素にして倹しい。靴には穴があき、雨の日は足元より水がしみこむ――まこと気の毒なことでござる。
されど妙なるは、そのような中で、宗助の家には住み込みの下女がひとり、しっかりと仕えておること。子どももなく、夫婦ふたりきりの狭き住まいにて、いったいどれほどの家事があるものかと、現代の感覚では不思議にも思われまする。
されどこれは、時代の「常識」というものでござろう。
明治の頃は、「ある程度の家には下女がいる」というのが一種の体面でもあり、「家というものはそういうもの」とされていたのでしょうな。給金とて、現代のような基準ではなかったかもしれませぬし、下女に与える部屋や食も、今の感覚とはまた異なっていたでござろう。
一方で、靴の穴をそのままにしておくのは、「自分のための贅沢を避ける」ことが慎ましき暮らしとされた美徳のあらわれだったのかもしれませぬ。
さて、本日は朝よりしとしとと、雨が一日止むことなく降り続き、空も地も、じっと春の深まりを待っているような気配にござった。